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交響曲第1番 ヘ短調 作品10は、ドミートリイ・ショスタコーヴィチが作曲した最初の交響曲。レニングラード音楽院の卒業制作として作曲された。 == 概要 == ===作曲=== 1924年の夏にショスタコーヴィチはクリミア半島で療養していたが、回復後にレニングラードへ戻った直後の10月に音楽院の卒業も控えていたため、交響曲の作曲に着手する。第2楽章のスケルツォは1923年12月頃にすでに着手〔デレク・ハレムの作品目録では「1923年7月1日」と自筆譜に記入されている。〕されていたが、マクシミリアン・シテインベルクに見せたところ、その独創的な内容に不満を見せ「グロテスクすぎる」と激怒して作曲途中の草稿を破り棄てたという〔千葉潤『作曲家・人と作品シリーズ ショスタコーヴィチ』p.185〕(しかしシテインベルクは交響曲の作曲を続けるよう指示を出している〔ローレル・フェイ『ショスタコーヴィチ ある生涯』p.43〕)。スケルツォ第2番 変ホ長調作品7はもともとはこの曲の第3楽章として書かれたものである〔エリザベス・ウイルソン『Shostakovich A LIFE Remembered』2006年、ISBN 978-0571220502 50頁〕。第1楽章と第2楽章は同年12月初旬に、翌1925年1月に第3楽章をそれぞれ完成させ、第4楽章は本人が友人に宛てた手紙の中で「一向に進んでいない」と漏らしていたほど作曲に行き詰っていたが〔『ショスタコーヴィチ ある生涯』p.45〕、3月下旬には1週間ほどで一気呵成に書き上げている。なお、6月に全体のオーケストレーションを施し、7月1日に清書したのち、自筆譜に完成した日付を書き添えた。 1925年5月6日、音楽院作曲科の卒業試験において、2台ピアノ用に編曲した本作を音楽院指導教官のアレクサンドル・グラズノフやシテインベルクを前に披露した〔友人のパーヴェル・フェルツと共に演奏した(『ショスタコーヴィチ ある生涯』p.47)〕。反応は様々であったが結果は概ね良好で、公開演奏が決定する。しかしグラズノフから「序奏部が斬新すぎる」という理由で、和声法の規則に則って自らが和声付けをした部分を示してその箇所の訂正を要求し、ショスタコーヴィチは彼の意見に渋々従ったものの、結局公開演奏の直前に本来の和声に戻してグラズノフの意向を無視したため、グラズノフは機嫌を害したという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「交響曲第1番 (ショスタコーヴィチ)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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